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第5回講演会

徳川忠長の解説に定評のある小池進氏を講師に招き、「亜相徳川忠長の悲劇」と題して講演いただきました。悪行部分の話が流布され、忠長の実態が正しく伝わっていない事に関心を持たれ、忠長の陰と陽について彼の生い立ちからお話されました。家康の孫、徳川2代将軍秀忠の息子として、一時は将軍後継の最有力とまで目された忠長。生まれながらに一流の血筋と絶大な権力を合わせ持ちながら、28年という短い生涯は自刃という形で幕を閉じた。丹念に調べた資料に基づき、忠長生前の多くの逸話を分かりやすく解説いただきました。またミニ講演会として静岡市歴史博物館学芸員の増田亜弥乃氏に、徳川忠長が在任していた時代の駿府城下町の町割や構造、駿府城に隣接した武家屋敷について、「徳川忠長期の駿府城下町」と題して解説頂きました。

◆日時:2024年12月7日(土)
◆会場:静岡県男女共同参画センター5Fあざれあ
◆講師:小池進氏(東洋大学非常勤教授)

題目:「亜相徳川忠長の悲劇」

「徳川忠長は、二代将軍徳川秀忠の三男に生まれ、後に三代将軍となる兄家光とは異なり、 両親の寵愛を一身にうけて成長した。 寛永元年(1624) には父秀忠から駿府城と駿河・遠江などで50万石を拝領し、同3年には従二位権大納言に叙任するなど、 「三家」 の尾張家・紀伊家とならぶ、そして水戸家をもしのぐ親藩大名となり、幕府の藩屏として将来を嘱望される存在であった。いっぽうで、兄家光との兄弟関係は、あまり良好ではなかったとされ

る。だが、じっさい二人のあいだには表だって確執めいたものはなく、とくに秀忠の大御所時代はむしろ蜜月ともいうべき良好な関係にあった。ところが、その忠長は秀忠晩年の寛永8年になると、家臣や女中の手討ちをくり返すなどの凶行に走り、翌9年改易に処され、そして同10年12月、ついに兄家光によって自害に追い込まれたのである。今回の講演では、なぜ忠長はそうした凶行に走ったのか、それがなぜ寛永8年初頭からだったのか、という点を中心に考えてみたい。」という観点で解説頂きました。